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日本における体操の成立と嘉納治五郎

日本における体操の成立と嘉納治五郎

:身体運動に対する思想と資本としての人的ネットワーク

1.嘉納治五郎による大日本体育協会の構想と今日的課題

1909(明治42)年、嘉納治五郎(東京高等師範学校校長)は、IOC総会(ベルリン)においてアジアで初めてIOC委員に選出された。嘉納は、オリンピックに参加すべく、1911(明治44)年7月、大日本体育協会を創立し、自ら初代会長に就任した。そして、10月7日、「日本体育協会の創立とストックホルムオリンピック大会予選会開催に関する趣意書」を提示した。そこには、以下のように書かれている。

国家の盛衰は国民精神の消長に因り 国民精神の消長は国民体力の強弱に関係し 国民体力の強弱は其国民たる個人及び団体が特に体育に留意すると否とに依りて岐(わか)るることは世の普く知る所に候 (中略)我国体育の現状と世界の大勢とに鑑み 茲に大日本体育協会を組織し 内は以て我国民体育の発達を図り外は以て国際オリンピック大会に参加するの計画を立てんことを決議仕り 先づ其第一着手として別記要項により国際オリンピック大会選手予選会を開く事に相成候(嘉納, 1911)(筆者註:ふりがな及び下線は、筆者による)

この趣意書から分かるように、嘉納は、国民体育の発達と国際オリンピック大会への参加という二つの目的をもって大日本体育協会を創立した。しかしながら、「国民体育」とは何か、そしてその振興策について、嘉納自身が中心になって議論をした形跡を辿ることは困難と言え、さらに国民体育の内容の吟味や振興策について、学校体育を研究するアカデミズムを超え出た広くて深い議論はなされてこなかった。

また、オリンピック大会期間中のメディアと人々の興味、関心の高まりは見られるものの、オリンピック大会に参加することの意義や意味、あるいは財政基盤やメダル獲得に関する施策や国家的意味などを政治家、メディア、そして国民が熟議し、検討する場も設定されてこなかった。(入江, 1991, 1993; 坂上, 1998; 坂上ら, 2009など。あるいは日本スポーツ社会学会, 2010; 勝田, 2010を参照)

今日求められているのは、いったい国民にとって体育やオリンピックといった国際競技大会は、どのような意味や意義があり、どうして税金を基盤にした財政的支援をこれらに向けていく必要があるのか、そして身体運動はなぜに人をあるいは人々を健康にし、快活にさせるのか、つまり体育実践の原理や原則は何か、について確固とした根拠を提示することである。

本稿は、体育の原点とも言える体操の成立に携わった人々のネットワークを中心にその歴史を紐解き、嘉納はそれにどのように関わったのかを捉えながら、体操の構築に際して展開された権力関係を考察する。同時に、それは嘉納のもっていた人的資源、P. ブルデューの言からすれば経済資本・文化資本・社会資本(ブルデュー, 1979a, 1979b, 1980a, 1980c, 1980d)、そしてスポーツにまつわる議論を行う「場(champ)」(ブルデュー, 1980b, 1988)を探求することになる。これらの試みは、柔道を創造し、オリンピックに参加し、さらに東京高等師範学校校長を3期、約24年間に渡って歴任し、留学生を多数受け入れた多面体としての嘉納治五郎を表出させる契機になるだろう。

こうした試みは、2011年に日本体育協会が100周年を迎えるに際し、日本スポーツ界を振り返ったとき、嘉納治五郎、小林一三、正力松太郎、堤康次郎-義明親子、そして川淵三郎といった重大人物を分析する糸口になると考える。嘉納に見られるように、様々な資本を獲得し、多様な「場」において、有利な展開を切り開く象徴的な力(le pouvoir symbolique)をもつことこそが、今日のスポーツ界にとって重要な要素だからである。

2.明治初期における体操と遊戯

近代的な身体をどのように作り上げるかの問題は、近代的な軍隊をいかに作り上げるのかの問題と並行して起こった。特に、1877(明治10)年の西南の役で西郷率いる薩摩軍に官軍がまったく歯がたたなかった現実を踏まえ(武智, 1989: 15)、1879(明治12)年の上毛大演習で集団行動、行進、駆け足、突撃、方向転換、葡匐前進が近代的軍隊を作るために訓練された(同上書: 20)。そして、陸軍戸山学校などではフランスに基礎をおいた「歩兵操典」を用いて専門的に訓練したのである(清水・小谷, 1990)【註1】。

近代国家建設のための第一の課題は、このように強力な近代兵を作り上げるために民衆の身体を変えていくことにあった。この点が身体の近代化のひとつの側面だとするならば、それとは別に民衆の身体を近代化する必要があった。明治20年代以来、学校体育か社会体育かの論争を抱えつつも、いかに国民の体力を向上させるのかは国家の大きな課題だった。そして、学校体育において誰がどのように、何を題材として身体を鍛えるのかが近代国家建設にとって重要な課題となった。

こうした学校体育への要求が国家的にみられる中、制度的身体モデルともいえるひとつの理想のモデルはどのようにして作られたのか、どのような形で示されたのか、そしてまた生徒はどのように受容したのかが問題として浮かび上がってくる。本論文では、1913(大正2)年の初の学校体操教授要目制定へのプロセスの中でスウェーデン体操派(永井道明、井口阿くり)と普通体操・遊戯(スポーツ)派(嘉納治五郎、可児徳)との対立を軸に、その周辺の人物(三橋喜久雄)を視野に入れながら、どのようにしてこの「国」の民衆の身体技法が学校体育の中で作られてきたのかについて述べる。

この「国」で制度的に体操が移入されたのは1878(明治11)年10月に開校された體操傳習所であり、アメリカ、マサチューセッツ州アマースト・カレッジから1878年6月より1881(明治14)年7月まで指導主任として赴任していたG.E.リーランドによるものである【注2】。教員そして通訳として體操傳習所に勤務していた坪井玄道は、リーランドが體操傳習所、東京師範学校、東京女子師範学校で指導していたことを筆記し、また彼の所説を訳出して1882(明治15)年に『新撰體操書』を出版した。そこには徒手体操や用具を使った唖鈴、球竿、棍棒、木環、豆嚢の各体操のやり方が図を伴って説明されている。(図1参照)これらは、後に軽体操、さらに普通体操と呼ばれるようになり、全身の血行をよくし、身体の滋養に効果があり、「温雅ニシテ美麗ナル其愉快ニシテ利益アルコト実ニ諸国諸般ノ学校ニ於テ実施スベキモノ・・・。」(Leland, 1882: 21)とされた。しかしながら、この書の中で身体の基本姿勢、そして、集団の並び方、右及び左への向き方、旋回の方法、行進の方法とそれぞれについての号令の掛け方が図入りで細かく書かれている(同上書: 1,5-6,17)。

[図1を挿入]

著者たちは、このような「形」が明治初期の体操移入の時点で実践されることを含めて体操を考えていたと思われる。そして、そのような「形」は、1885(明治18)年に坪井玄道と田中盛業によって編纂された『戸外遊戯法』の中でも示されている。鹿ヤ鹿ヤ、盲目鬼、鬼遊、卵帽子、月月火水、投球競争、旗拾ヒ競走、旗戻シ競走、二人三脚、嚢脚競走、ポーム、綱引、行進法、投環(クオイツ)、投球(ボールス)、トロコ、フートボール、循環球(クロッケー)、ローンテニス、ベースボール、操櫓術の種目についてそれぞれのやり方が記述されている中で、凡例において「右向けー 右」「用意 始め」式の号令の掛け方が記されている(坪井ら編, 1885: 凡例)。しかしながら、この著書はあくまでも、「大ニ心神ヲ爽快ニシ優暢快活ノ気風ヲ養成」(同上書: 緒言)するものであった。したがって、そこに記されている行進法も前後左右の直線的行進から、斜め、あるいは曲線的行進、そして、直線から曲線、8列から1列への移行、行進によって十字、車輪、陪星(ばいせい、すなわちサテライト)を形作るなど集団ドリルとして造形美を表出する、今で言えば、マーチングバンドのような美学的な要素を持っていたのであり、体操の準備として行う排列法、整頓法(新撰體操書1882.6.;新制体操法1882.6.;小学普通体操法1884.6.;普通体操法1885.1.、1887.7.に見られる)や直線的行進が中心で軍事訓練的要素の強いもの(隊列運動法1886.2.)とは異なった特徴があった(高橋ら, 1977: 149-162)。

3.道具としての体操:森有礼と兵式体操

このような遊戯や音楽を伴ったダンスは、幼稚園教育の中で見られるようになるが、小学校以上の学校制度の中では規律訓練化の傾向が強まってくる。1885(明治18)年に森有礼が初代文部大臣になると、規律訓練的身体を国家的に養成する政策を提示し、1886年に公布された〈学校令〉では、教科として「体操」が位置づけられた。同じ年、森文相は「生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノ」(下線部著者)(多賀, 1960: 191)とさせる教員を養成するために<師範学校令>を公布した。そこでは全寮制寄宿舎による生活訓練、および兵式体操が導入された。森は、規則や命令に従順で、友情に厚く、権威に服従しながら、かつ自分でも権威を背景に行動する資質を教育の三徳性と考え、身体そのものを規律・訓練する有効性に気づいていた。それは、1891(明治24)年の〈小学校教則大綱〉第11条に「体操ハ身体ノ成長ヲ均斉ニシテ健康ナラシメ、精神ヲ快活ニシテ剛毅ナラシメ兼ネテ規律ヲ守ルノ習慣ヲ養フヲ以テ要旨トス」(竹之下, 1950: 30)とされていることからもわかる。この時点で、体操は保健、衛生あるいは健康よりも規則や上司に服従し、集団への従属感を高め、かつ集団行動の美的価値を強調するようにさせる「道具」となったのである。

4.永井道明とスウェーデン体操

こうした森有礼の思想を体現し、普通体操や遊戯と異なる体操を実践するように制度化していったのが東京高等師範学校・女子高等師範学校の両教授であった永井道明である。永井は、井口阿くり【註3】がアメリカからもたらしたスウェーデン体操を体操科の中心的な内容にしようと勤め、1913(大正2)年に初めて制定された学校体操教授要目の草案を作った人物である。ここでは、その生い立ちを記しながら、永井がスウェーデン体操に傾注していったプロセスを述べる。

永井は、1868(明治元)年12月18日に水戸市蔵前に生まれた(兄弟姉妹10人)【註4】。1876(明治9)年に下市小学校入学し、一時大宮に転校するが、復学、1882(明治15)年に卒業している。この頃のことについて、「其の頃の体育はと考ふるに廃刀の令と共に武士の体育は中絶せられた。学制は明治五年頒布せられ、法文上には学校体育は体術とか体操とか記されてあるが普くは行はれなかつた。それ故余の下市小学生活中は学校でも家庭でも原始的自然の体育を楽しんだ。其頃水戸に於ける余等の遊戯運動は左の如きものであつた。」そして以下のものを挙げている。「鬼事、走りくら、竹馬、凧揚げ、コマ廻はし、輪廻はし、ハコ投げ、銀クイヌ根木、釘打ち、鞠投、相撲、木登、竹登、乗馬、水泳」である(永井, 1940: 4-6)。永井は、1886(明治19)年に水戸中学校を卒業しているが、体操の体験について、「余は明治十五年中学入学後間もなく其の普通体操を授けられた。その先生はドクトル・リーランドの直弟子の一人星野久成先生であった。而して其の体操は

〇徒手では矯正術(整容法)徒手体操(連続)第一、第二。

〇器具では唖鈴、球竿、棍棒体操。

〇器械では併行棒、水平棒(樫ノ棒=鉄棒に当ル)

〇遊戯では競走、幅跳、高跳、蹴球、野球などであった。

…唖鈴は手頃の木を其形に切り荒削りして之に代へた。球竿は時に箒を利用したこともあるが、多くは竹棒を以て之に代へた。棍棒に至つては手拭だの、棒切れだの色色利用して見たが甘く行かないので、最後には垣根の一端に在った榎を切り倒し鋸と鉈と小刀とで根気よくヘチマ型の棍棒一対を作り上げた」(同上書: 8)とリーランドに端を発する普通体操をまず経験していることを述べている。

この後、1886(明治19)年に茨城師範学校入学。森文部大臣の師範教育観に基づいた彼の学校観や体操観は、ここで身についたと考えられる。「丁度余が師範入学の明治十九年は森文部大臣が全国師範に兵式訓練を励行するの機に当つて居たのであつた。・・・断然励行せられたのは所謂兵式訓練であつた。」ここで、兵式訓練の指揮号令を担当している。しかしながら、「・・・現在我国の兵式教練が陸軍から配属将校の派遣に頼りて行はるゝ様になつて居ることは国家の二大代表陸軍文部の提携と国民指導の二大代表教育者と軍人との協力とから見ると頗る結構の様でもあり、教師其人の資質昔日の比では無いが進んで将来の国民訓練を考へて見ると、文部が陸軍の力に頼り教育家が軍人の力に俟つて国民訓練の責を塞ぐ如きは決して永久最上の策ではあるまいと思ふのである」(同上書: 11) と述べ、学校教員としての自覚と教育力の向上を陸軍とは別に進めなければならないと明言している。

永井は、1890(明治23)年には東京高等師範学校博物科に入学し、さらに兵式教練、兵式体操、普通体操に励んでいるが、普通体操の際の坪井玄道を見て以下のような文章を残している。「かの坪井玄道先生から親しく教を受けた。あの円満な態度、慈愛な御顔とは御手足が御口ほどには伸びて居られなかつた御姿勢今以て目の前に彷彿として居る。」(同上書: 12-13)このあたりは、軽体操や遊戯を主張した坪井玄道に対するスウェーデン体操派永井の辛口の批評ととってよいだろう。また、庭球に熱を入れ、「鉄杆将軍」「鉄杆上人」のあだ名がつけられるほどに晴れた時は鉄棒、雨天時は屋内体操場で棍棒を振っていた。

彼は、1893(明治26)年に東京高等師範学校卒業後、すぐに附属の助教諭兼訓導(英語、習字、中心は体操の先生)に任ぜられ、さらに、卒業後すぐ6週間現役兵となり、以後兵式教練もやるようになった。以下のように述べている。

此の入営によつて日清戦役前に於ける日本の軍隊を見、特に山地将軍(師団長)、乃木将軍(旅団長)などの風貌に接して少からず余が年来の軍人観を向上させた。…国民としての軍隊への認識不足、教育者としての兵役(国民全般の)に対する責任の自覚足らず(中略)余は其の際国民男子の教育は先づ完全な軍人を作るに在りと覚つて高師校長への報告にも劈頭第一にかく記したと記憶して居る。而して乞ふ槐より始めよで自ら先づ軍人として恥かしからぬ一臣民たらむことを覚悟した。(同上書: 15-16)

この時点で、永井は国家にとって軍人を作ることが第一であり、そのために学校教育はどうあるべきかを考えていたように思われる。

その後、1896(明治29)年に畝傍中学校長(修身、体操、博物(後、博物は専任に譲る)を担当)を経て、1900(明治33)年に姫路中学校へ転任した。そこでの仕事として以下のことを挙げている。

1.全訓練の復興、校規の粛正、健心健体の実現を著々と実行して行った。日々の運動場に余の顔を見ない時はめつたにない。毎月一度の遠足旅行…。野営野外教練にも数々の思出ある中に吹雪を衝いて全生徒夢前川の徒渉突貫など其の主なるものである。…雨中行軍、雨中運動会などは蓋し当時に於ける姫路名物の一であつたらう。

是に於て体操校長の名いよいよ高くなつたらしいが同時に旧職員、旧卒業生、一部の父兄からは認識不足の反感を買った。…

幸運にも明治三十七年(西暦1904)日露戦役は勃発した。全国民は真に挙国一致して奮起した。姫路地方内外も緊張した。其の上教練、体操の教員全部悉く召集せられたので、余は自ら陣頭に立ち全校職員及び上級生徒を総動員して全校体育の学校一致の活動に邁進した。

2.全国民側が忠勇なる陸海軍の連戦連勝の祝賀に酔つて居る際に余は二つの大なる衝動を受けた。

其一は国民心力気力自信である。余はその時まで気八分(心力八分体力二分)の持論であつたが、…爾来十二分説に修正するに至つたことである。

其の二は国民体力の貧弱であつた。即ち全国民体育の痛感であつた。戦争が一年も過ぎ戦死後送の兵益々多きを加へ、従つて補充応募の新兵が続々姫路の練兵場に活動するのを見た。…其の身体はと見れば躯幹四肢は細くして軍服(前の兵の着た古服)は太く、体も手足も服の中にダブダブとして居る。・・・出征の兵士が死傷して故国に還るのは勇壮であるが病障帰還ほど不愍なものはない。(同上書: 20-21)

永井は兵隊の体力や志気の向上にとって益々学校教育の中で、体力、精神を規律・訓練するための体操が必要なこと、さらに学校教育として何をすべきかを常に考え、実践していたのである。

そして、1905(明治38)年12月22日に留学に出発した。ボストン体操師範学校(永井道明が卒業後、間もなくウレズレー女子大学に合併され、その体育部となる)に入学し、その校長ミス・ホーマンス(Homans)宅へ宿泊した。YMCA、YWCA、YMCU、市立体育館、アマースト大学、スプリングフィールド・キリスト教大学なども視察した後、1907(明治40)年7月英国、8月にはスウェーデン王立中央体操練習所に入学している。永井は、以下のような感想を述べている。

所謂、瑞典体操リング・システムと言つても、米国のものと、英国のものと、丁抹のものと、而して本国瑞典のものとは模様が違ふし、同じ本国瑞典のものでも時代により人により必ずしも同一ではない。殊に教へ方とか、号令などは全く教師其人によつて大に趣を異にして居る。

・・・而して余は瑞典の上位者、将校、教師の態度に共鳴しないで、寧ろそれよりは独逸流のリーダー主義教師の心身示範の態度の方に賛成した。(同上書: 27-28)

1909(明治42)年1月27日、永井は神戸に上陸。その後、東京高等師範学校、及び女子高等師範学校の両方の教授となった。そして、体操科の中でスウェーデン体操を中心にするよう運動した。1913(大正2)年に初の『学校体操教授要目』を永井が中心となって作り上げるが、普通体操・遊戯(スポーツ)を推す校長の嘉納治五郎や可児徳と対立し、それによる三橋喜久雄の退官問題もあって退職。1920(大正9)年6月1日ヨーロッパに出発、アメリカ、ハワイを回り翌年5月帰朝し、その後1923(大正12)年に本郷中学校を創立している。

さて、こうした生い立ちの上に永井はどのような体操観を持ち得たのか。その著『学校体操要義』では、体操科教授の要旨を以下の4つに類別している。

第一 身体の各部を均斎に発育せしむること。

第二 各機能を完全に発達せしむること。

第三 動作を機敏耐久にし、精神を快活剛毅ならしむること。

第四 規律を守り協同を尚ぶ習慣を養ふこと。

…此の四つのものは、実は総合一致して始めて目的を達するものにして、箇々別々に其の効あるものにあらず。(永井, 1913: 11-12)

そして、「個人として完全ならんには、心身一致の行動をなし得ざるべからず。心身一致の行動をなし得んには、各機関の機能完全ならざるべからず。…故に体操科の要旨を一言にして云へば、個人的社会的に完全なる人を作るにありと云ふに帰するなり」(同上書: 21)とその目標を掲げている。その上で、永井は体操の主眼点を解剖的、生理的、心理的の3要点とし、解剖学的主眼点の説明として以下のように述べている。

…各部均斎の発育は、固より望む所なれども、其の中最も必要なる部分、即ち身体の根本的主要部は、躯幹殊に胸部なり。…而して、其の運動は、図に示すが如く、能く其の胸を張るを要するなり。(図2参照)(同上書: 37-39)

[図2を挿入]

次に、姿勢や号令について以下のように述べている。

直立姿勢=気を着けの姿勢

…此の姿勢は体操のみならず、教練その他に於ても、又極めて大切なる姿勢なり。歩兵操典には、之れを不動の姿勢と称するを以て、体操上の名称と相併せて、直立不動の姿勢とも唱ふべしと雖も、余は此の姿勢を取らしむるに用ふる号令の如く、「気を着け」の姿勢と命名するを以て最も適当なりと認むるなり。(同上書: 53)

〔号令〕

気を着け

此の号令は最も快活にして、且厳粛に下すを必要とす。是れ教師の快活厳粛なる精神を、生徒に感受せしむる所以にして、生徒をして快活厳粛ならしむる為めには、大切なる条件なればなり。

〔要領〕

両踵を一線上に揃えて之れを着け、両足を約六十度に開きて斎しく外に向け、両膝は凝らざるやう之れを伸ばし、上体を正しく腰の上に落ち着け、且少しく前に傾け、両肩を稍々後ろに引きて一様に之れを下げ、両腕は自然に垂れ、掌を股に接し、指は軽く伸ばして之れを並べ、中指を袴の縫目に当て、頚を真直にし、頭を正しく保ち、口を閉じ、両眼は十分之れを開きて前方を直視す。(図3参照)(同上書: 54-55)

また、教練については、以下のように記している。

教練の性質を身体上より見れば、則ち全身的運動なるが、其の特質は、此の身体上の性質よりも、寧ろ精神上の性質に在りて存す。即ち心身一致して能く規律を守り、協同を尚び、常に各自の一身を善美にして、以て社会公衆と統一する規律的習慣を養ふを以て主眼とするなり。

教練に於ける運動の方法形式等は、大体に於て、我が軍隊の歩兵操典に準拠するを以て至当と認むること、体操教授要目に示されたるが如し。…軍隊に於ける歩兵操典は、一に戦闘を基礎として定められたるものなれば、其の全部が、悉く学校教育に行ひ得べきにあらざることは明かなり。之れと同時に、軍隊としては必要なきも、学校としては、又特殊なる規律的運動の必要なる事是れ又疑なき所なり。(同上書: 498-499)

永井は、軍隊とは別に学校においても軍人を作るための教育の重要性を痛感していた。師範学校と軍隊経験の中で森有礼の思想を体現し、規律訓練的な身体の鍛錬が第一の方法であると考えた彼は、生理・解剖学的な原理、すなわち科学的とする根拠があるにしても、規律訓練的なある「形」を強調するスウェーデン体操を留学の体験を踏まえて推したのである。

[図3を挿入]

5.永井道明対嘉納治五郎/スウェーデン体操対普通体操・遊戯(スポーツ)/高師における派閥争い

(1)体操遊戯取調委員会をめぐって

明治三十七、八年の日露戦争が終ると、日本は益々世界的に国威の宣揚と、その将来の実力をたくわえんがために教育の振興、国民精神の作興に力瘤を入れ始めた。そこで学校及び軍隊に於ける体育を重大視する空気と、それの具体化として、中等学校の体操教師に軍人を当てることが始まった。そこで文部省も、学校体育を大いに研究せねばならぬ状態に迫られて、男女一名宛の文部省体育研究外国留学生を派遣して研究させることになった。「井口アグリ女史は明治四十年帰朝、永井道明先生は四十二年帰朝せられた。この頃から、日本体育革新の…一つの大きな進展が見られた。一つは学校体育の中に軍隊的勢力を入れるべきか如何、他の一つは学校体育内にあって、坪井玄道先生、可児徳先生を中心にする所謂旧派と、井口、永井両先生を中心とする新派との関係、この二つの関係を調整して我が国学校体育を如何に進めるかということであった。」私は丁度この胎動、混沌、論議、錯綜の中に赤ん坊として生れたかのような格好であった。師範在学時代も、文検受験の時も、学校体育に於ける二つの流れと、軍隊のものとの三つの流れが私という赤ん坊を育成した環境であった。…この環境だけは趣があり、味の浅からぬものであったことを今も思い返すことが出来る。」(三橋喜久雄先生の喜寿を祝う会, 1966: 10)

このように述べている三橋喜久雄については後に説明するが、永井道明は軍部と体操の内容や学校の教員の問題に関して議論する一方で(永井, 1940: 34-37参照)、スウェーデン体操か普通体操・遊戯(スポーツ)かの論争に決着をつけなければならなかった。

文部省は、1904(明治37)年に普通体操・遊戯とスウェーデン体操が教科の中で混乱して行われているとして体操遊戯取調委員会を設置し、8名の委員を挙げて調査を命じた。そして、37回の会合の結果、1906(明治39)年1月15日に報告書を提出したものの質問が続出したので、報告書の解説を主眼として『体育之理論及実際』が著されている(元文部省体操遊戯取調委員井口ら, 1910: 序1)。 しかし、この著書は、「其ノ解説ノ責任ハ、固ヨリ著者等各個人ノ負フ所ニシテ、委員会ト何等ノ関係アルコトニアラザルナリ」(同上書: 序3)とあるように、各個人がそれぞれの体育観、遊戯観に基づいて個々別々に書かれたものになっている。

これはまさに、執筆者である高島平三郎【註5】、可児徳【註6】、坪井玄道の普通体操・遊戯(スポーツ)派と井口阿くり、川瀬元九郎【註7】のスウェーデン体操派に明確に別れることに起因している。特に、著書の始めの「緒論 第一章から四章にかけて体育ノ必要ナル所以、体育ノ範囲、種類、定義」、さらに「本論 第一章 体操科ノ目的概論」を執筆した高島平三郎は、別の著書で「体操は遊戯と直接目的を異にし必ずしも自由快感を主とせず。故に本巻に由りて体操を行ふものは必ず一定の厳格なる規律の下に正確に運動せんことを要す」(高島ら, 1907: 2)と記しているように、画一的で規律訓練的な体操が自由な遊戯とまったく合い入れないことを示している。そして、この二派は嘉納治五郎対永井道明の東京高等師範学校での派閥争いにつながったと考えられる。

では、嘉納治五郎はどのような思想を持っていたのか。彼の生い立ちとそのネットワークを追いながら考えていく。

(2)嘉納治五郎とそのネットワーク

嘉納治五郎は、1860(万延元)年10月18日に兵庫県武庫郡御影町浜東に後に松影荘と称される酒造業を営む旧家に生まれた(三男、幼名伸之助)。父、治郎作希芝は、土地の日吉神社の社家であった生源寺家から人物を見込まれて嘉納家に婿入りしていた。

嘉納家は、灘の酒造業の宗家ともいうべき由緒を誇り、万治二年(1659)の創業と伝えられる。江戸への出荷が盛んになった享保(1716~1735)頃の灘の酒造業者の大半は嘉納一族であったことが・御影町誌・に記されている。こうした嘉納家の家格は、幕末に至って一層高まり、御影の嘉納治兵衛・嘉納治郎右衛門など嘉納一族から幕府に冥加金を献納して苗字帯刀を許された。因に、当時五百両以上献金しないと苗治帯刀御免にならなかった。(長谷川, 1981: 3)

治五郎の父、治郎作は1年で息子良太郎に酒造業を譲り、自らは大阪の幕府廻船方御用をつとめ、重用されて江戸詰となった。これにともない治五郎は、1871(明治4)年東京に行き、蛎殻町の自邸から両国の成達書塾に入学した(塾主;生方桂堂)。同時に、生方の勧めで神田の蓑作秋坪の塾で英語を学び、漢学と洋学のふたつを学ぶことになる。さらに、1873(明治6)年に育英義塾(芝烏森町)に入学、オランダ人が教頭、ドイツ人が助教のその塾は、学課のすべてを英語で教えていた。 そして、1874(明治7)年に東京外国語学校英語部(後の英語学校)に進んだ後、(加藤首相、坪井九馬三博士等と1881(明治14)年に東京大学を卒業するまで同学)1875(明治8)年に開成学校に入学した。

「…諸藩の貢進生時代からの連中が多数集まつて居るので、ますます腕力の必要を感じた。此処では、学問も勿論重んぜられたが、なほ肉体的優越の必要はむしろ育英義塾以上であつた。此処でも自分は、学問にかけては勉強さへすれば他人におくれをとるやうなことはないのであつたが、身体ではどうにも仕方がない。それ故、柔術修業の希望は益々深くなつた。・・・それから真剣に所々を探し廻つた」(嘉納, 1927-1930a: 3)と身体が小さいことにコンプレックスを持っていた嘉納は、柔術によって鍛錬する必要があることを感じていた。

1877(明治10)年、東京大学文学部に入学し、同時に柔術士磯又右衛門の直門で、免許皆伝の八木貞之助、そして同門の幕府講武所世話心得の福田八之助の門下生となった。そこで天神真楊流(楊心流と真之神道流の合体したもので磯又右衛門開祖)の柔術を学び始めた。1879(明治12)年には、福田八之助が没したため治五郎が道場を預かることになるが、自信がないため天神真楊流元祖、磯又右衛門の高弟である磯正智の門下生となり、主として柔術の型を学んだ。1881(明治14)年に東京大学文学部を卒業するが師である磯正智を失い、幕府講武所起倒流柔術教授方、飯久保師範の門下生となった。ここで前の2流にない投業を修得した。

このように数々の柔術の流派から様々な技を学んだ嘉納治五郎は、後に柔道という名の制度化した体系を作り上げた(井上, 1992: 111-125)。様々なスポーツをやりながらも柔術にのめり込んだ経緯をこう表している。

さうかうして修業している中に、自分の身体の著しくよくなつたことを感じて来た。自分は以前から、いろいろの運動もやつては見た。器械体操も少しはやつた、駈けつこもやつた、船も漕いで見た、遠足もした。最も多くやつたのは球投げ、ベース・ボールであつた。…之を十分にするには時間を多く費やすのみならず、身体も過労に陥る。もしたまに行く様なことでは、運動の方が不十分になる。…遠足も、其頃遠足会が組織せられて、有志が方々あるき廻つていた。…伴し、此遠足は日曜其他の休日より出来ないので、くたびれるわりには身体の鍛錬が出来ないことを見出した。球投げも球を投げる丈の局部的のもので、全身を発育させるには効がうすい。ベース・ボールとなると、甚だ広い場所を要し、一組やれば他は出来ない。…此遊戯は面白い遊戯ではあるが、之を以て全身を鍛へるといふには不完全を免れない。…かうしたわけで、つまり柔術程、本当に身体を鍛錬するものはないといふことを実感するに至った。(嘉納, 1927-1930c: 15-16)

ここまでは、柔道の創始者たる嘉納の柔術に関わる背景を述べてきたが、嘉納治五郎はそればかりを身につけたのではない。東京大学での勉学について嘉納は、 「政治、理財、哲学等の学科では多数の教師から教えを受けたが、外国人では最も多くフェノロサとクーパーとに、英文学をホードンについて学んだ。漢学では中村敬宇、島田重禮、三島毅等の人々、和学では横山由清、小中村清矩、黒川真頼等の人々に多く師事した。印度哲学は原担山、吉谷覚寿等の人々についた。」(嘉納, 1927-1930b: 13) そして、同級生には、末岡精一(東京大学国法学教授)、坪井九馬三(文科大学長)、都築馨六(枢密院顧問官)、辰巳小次郎(諸方の私立学校教師)、田中稲城(和漢学、帝国図書館長)らがいた。嘉納を後に支えるこうした人物たちとのネットワークとそれを支える資本は東京大学で身についたのである。

1881(明治14)年に東京大学文学部を卒業し、続けて1年間哲学選科生として大学に残った後(翌年7月卒業)、1882(明治15)年1月に学習院政治経済科講師(立花種恭院長)となった。生徒は嘉納治五郎より年上で子爵山口弘達、子爵大久保忠順、子爵佐竹義理、子爵牧野貞寧などである。

そして、1882(明治15)年2月になると下谷北稲荷町永昌寺の書院と離れに書生を置き、住むようになった。そこで弘文館を設立(神田区南神保町→麹町区一番町→今川小路一丁目→富士見町一丁目と移転を繰り返す)し、講師に坪井九馬三(文科大学長)、後藤、大沢、安川各氏など東京大学文学部の同級生たちを配した。ここの卒業生には、男爵郷誠之助、伊丹二郎(郵船会社)、本田増次郎(英語教師)、宗像逸郎(教育家)、川瀬兵治郎(弁護士)がいた。このような私塾の設立について、

「…自分の天性の然らしむる所で、人を教へることを楽みとし、己の力を以て世に施すをよいことと考へたためであつた。」(嘉納, 1927-1930a: 160)としている。さらに、この年の5月に講道館を創始した。

1884(明治17)年に学習院が華族会館立の私学から官立になり、谷干城(たにたてき、西南戦争の際、熊本鎮台指令官)が院長に就任した。翌年嘉納は、学習院幹事になるが、寮監人事に対して不満をもち、放任主義に対する抵抗を示した。翌1886(明治19)年に学習院教授兼教頭になると、華族以外からも優秀な学生を選抜して入学させ、華族の子弟と切磋琢磨させる方針を打ち出し、大沢三之助、矢作栄蔵(大学教授)、嘉納徳三郎(専売局長官、朝鮮銀行副総裁)、尾田信忠(陸軍教授)、森山松之助(建築家)、浦太郎、大島次郎(大島院長、次男)がこの時入学してきている。しかしながら、1889(明治22)年に陸軍中將子爵三浦梧楼氏が院長になると嘉納と性格が合わず、また華族、士族、平民の区別をすることに不満を抱くようになる。そして、その年の夏に三浦院長の勧めによりヨーロッパへ視察旅行に出た。教育関係を重点として視察し、フランスは、リヨン(学習院の教え子曽我祐準氏令息、子爵祐邦氏コレージュ在学中にて視察)、パリ(大学同級生の都築馨六、子爵田中不二麿公使と会う)、さらに都築馨六と一緒にベルギーに足を伸ばした。12月にはドイツ、ベルリンに大学同級生坪井九馬三博士(文科大学長)と行き、西園寺侯爵(当時)公使に会っている。当時ベルリンには、様々な留学生が在住しており、三好退蔵(大審院長)、星亨、後藤新平、田中正平(物理学者)、北尾次郎(物理学者)、井上哲次郎、田中館愛橘、日高真実等と留学生を寄宿させる宿などで知り合った。その後、南ドイツ、スイス、オーストリア、ロシア、スウェーデン、デンマーク、オランダ、イギリスを巡った。

「殊に、教授法・訓育の仕方等に学ぶ所はなかつた。知識の勝れたるを感ずると同時に、教育者としての優越を認め得なかつた。日本人の彼等に劣つてゐるのは、日本の既往の教育の方法が悪かつたのである。」(嘉納, 1927-1930d: 178)とおそらくはこの国の持つ、まさに森有礼以来後に体育界では永井道明が押し進めた規律訓練的な画一的教育の方法への嫌悪と改革の必要性をこのヨーロッパ留学を通して再認識したと考えられる。

1890(明治23)年12月にマルセイユ出発後、英、仏、蘭、スイス、オーストリアの人たちと一緒にカイロを巡り、ピラミッドに登るなどして、スイス、コロンボ、サイゴン、香港、上海を経由、途中の船上で柔術を披露して喝采を浴びるなどしながら翌年1月、横浜に到着した。

彼を待っていたのは結婚だった。南郷茂光の妻(嘉納治五郎の姉、南郷次郎の母)が高木兼寛博士夫人と懇意にしており、その高木夫人が当時華族女学校の学監下田歌子と親しくしていた関係で竹添進一郎氏の次女を勧められた。

自分は、妻の里として卑賎の家庭に育つたものをば好まない。さればといつて、又顕官・富豪の家に生育したものをも好まない。むしろ学者の家庭に人となつたものを適当と考えてゐた」(嘉納, 1927-1930e: 189)と述べているが、ここでも嘉納の生い立ちからくるある好みが表れている。同年8月に木下広次博士(竹添氏の師匠木下業広先生の次男で竹添氏と懇意、嘉納も学習院校長として一高校長の木下と平素から交際していた)媒酌により結婚。9月に熊本高等中学校長に就任した。

1893(明治26)年1月に教科書検定課長と学制改革に参与することになったが、6月に木下氏が専門学務局長に就任したので、嘉納は第一高等学校長に就任し、文部省参事官を兼務することになった。嘉納は、木下に代表される自治主義を以下のように批判している。

自分は、木下校長時代の所謂自治主義については、其侭満足はして居らなかった。…多くの官立学校に於ては、一切訓育は行はれて居らなかつたといつても過言でない。…かやうな実際の状況に艦みて、木下氏は寧ろ自治を唱道して、生徒自身に己を治むる責任の感を強からしむる方針に出たのであつた。それ故に、木下氏の所謂自治主義といふのは、必ずしも間違ではなかつた。さりながら、此自治には又、大に其弊も伴つて来る。もし生徒に全然自治せしむるならば、校長といふものは真実教育者としての職分を尽すことが出来ないといふことになる。もし自治が良く出来るならば、生徒は知識を受け入れることの外には、教育を受ける必要がないといふことになる。苟も学校である以上は、学校長が其生徒を指導するのが当然である。校長といふものは、予め有する理想に到達せしむる様に生徒を薫陶すべきである。其理想・其方針に従つて、生徒はそれぞれ己を磨く。それを一々他の指図をうけず、即ち強制せられずして自ら行つてゆく、それが自治でなければならぬ。然るに、在来の高等中学校に於ては、其理想といふものは全くないではないが、余りに漠然として居たとおもふ。又、偶々間違を起した生徒に対しては、正しき自治の精神に基づける学校の制裁によらず、生徒各自が勝手に制裁を加ふるといふことが度にすぎ、自治の精神を誤つた。…又、生徒を悉く寄宿舎に収容するといふ大体の方針であつたが、其寄宿舎内の清潔・整頓は甚だ不行届であつたが如きは、決して善い教育の跡とは請取れなかつた。…かゝる弊風を一洗して、真の訓育の出来ることにしなければならぬといふ自分の方針を木下氏に告げ、指導監督の行届かざる徒らなる自治を避くべき旨を述べた処、木下氏もこれに賛成し、是迄は已むなく、先づ以て行つた方法であるといはれた。自分も之を諒とし、時勢に応じて先づ行へる適当なる仕方と考へて居るのである。(嘉納, 1927-1930f: 195-197)

そして、嘉納は同年9月に高嶺秀夫氏の退職を受けて、東京高等師範学校校長に就任した(第一高等中学校校長は、久原躬弦主席教授が就任)。すぐさま、附属音楽学校、教育博物館を独立化し、東京高等師範学校の改革に着手した。それまで、文学科、理化学科、博物学科の3学級について各科3年毎に1クラスを募集するので、生徒数はわずか約80人、教授も15人で経費も甚だ貧弱、かつ尋常師範学校卒業生のみを入学させていたが、これを改革し、中学校からも採るようにしたのである(長谷川, 1981: 28) 。

嘉納の高等師範学校での改革の最も重要なものは、軍隊主義の排除だった。森文相以来、日本の教育制度が抱え込んできた軍隊主義的教育に真っ向から反対したのである。

「森文部大臣の遺法 其批判

自分の最も失望したのは、森有礼氏の師範教育に於ける功績の余りに挙がつて居らなかつたことであつた。外観から見て居れば、森氏は大に師範教育に心を注ぎ、東京師範学校を高等師範学校と改めて大に力瘤を此処に入れた様にきいてゐたが、自分の考ふる処では、森氏の着眼はよかつたのであるが、同氏自身が教育のことに精通せず、素人考でかれこれと案をたてゝ、之を実行した結果が、存外効果が挙らなかつたといふ始末になつたのではあるまいか。森氏は師範教育に順良・信愛・威重の三徳を主張したが、これは主張としてもとより悪くはないが、これが成績に於て左程の効果を顕はして居ない。又、森氏は兵式体操を奨励し、軍隊教育の如くに教育者を教育しようとした。これについても、自分は思ひつきは悪いとは思はないが、之を行ふ方法が当を得て居らなかつたと考へる。成る程、古来教育に於て、一部分形から人を作りあげることはある、是にも道理はある。併し、魂を入れて且つ形を作るのはよいが、形ばかり作つて魂を入れなければ何の役にもたゝない。師範教育に最も必要なるは、教育の力の偉大なることを理解し、教育の事業の楽しきことを知り、仮に外面からうける待遇が肉体的にも精神的にも十分でないとしても、教育事業其物を楽んで職にあたる。これが教育者の魂である。此魂を養ふことが教員養成の第一である。(中略)

森大臣のとき、山川浩氏が高等師範学校長に任じ、松石といふ陸軍将校が兵式教官として教育の任にあたつて居た。…士官学校ならばともかく、教育者養成の学校に於て、如何にして生徒を教養すべきかについては其見識が如何であつたらうか。

…森氏なほ世にあつて其事業を徹底したならば、或は或る効果を齊らしたでもあらうが、不幸にして其人早く兇刃にたふれ、之をつぐべき人もなく、別人が唯、其形と方法とのみを模倣したから、良い結果が得られないのは固より当然のことである。

自分は高等師範学校長就任以来、訓育は大に重んじたが、兵式の如きは格別なる注意を払はぬことにした。高等師範学生が独逸形の軍帽を冠つて居たのを、普通の学生帽にかへたのを始めとし、寄宿舎における生活凡てを、形式に拘泥せず精神を重んじ、万事の解決をしていつた。」(嘉納, 1927-1930f: 202-204)

その後、1895(明治28)年7月には、東京高等師範学生寮仮規則を定め、寄宿舎の軍隊式分団組織を廃止する。永井道明は、嘉納が校長になったその年の3月に森以来の軍隊式教育をまともに受けて高師を卒業しており、この当時は附属の助教諭兼訓導をしていた。

それから、1897(明治30)年9月に東京高等師範学校長を退任するも、11月に再度、東京高等師範学校長となり、1898(明治31)年1月に文部省普通学務局長を兼任。ついで、専任となり東京高等師範学校長を退任。さらに、11月に普通学務局長をも辞めている。1899(明治32)年には官費による体操専修科を設置し、これに柔道・剣道二種目を副科に加える改革があったが、1901(明治34)5月に三たび、東京高等師範学校長に就任し、翌年修身体操専修科を設置した。この校長期に永井道明は教授になっており、嘉納は三橋喜久雄の排斥問題や1913(大正2)年の学校体操教授要目制定へのプロセスで永井の推すスウェーデン体操と対立するのである。

以後、1909(明治42)年にIOC委員となる。1915(大正4)年には、体育科を設置(修業年限を3年から4年にする)し、ここで、教育・倫理・生理・解剖を学習させるようにした。1920(大正9)年1月に東京高等師範学校を依願退職している(長谷川, 1981: 32-33)。

このような嘉納治五郎の生い立ちとそのネットワークは、明らかに永井道明と異なっている。すなわち、嘉納のハビトゥス(Bourdieu, 1986: 703-704; ブルデュー, 1988: 272-290; ブルデュー, 1988; 田原, 1987: 69; 清水, 1993)が永井的なものを拒むのである。嘉納の生い立ちからくるスポーツや柔術の経験や彼の思考、身体は、永井がその生い立ちから持ち得たものとは相容れないと言えよう。そして、嘉納は以下のように体操を批判している。

(体育の目的を述べた後)筋肉ノ発育、身體ノ強健ナドノコトハ、並ミノ體操ニ由テモ随分出来ヌコトハナカロウト思ヒマスガ、身體四肢ノ自在ヲ得ル様ニナルノハ、外ノ體操デハ迚モ柔道ノ體操程ニハ参リマセヌデセウト思ヒマス。若シ外ノ體操ノ法ニ拠テ殊更ニ身體四肢ノ自在ヲ得ル様ニ練習致シマセウト思ヒマストキハ、全ク面白ミノ無イコトニナリマセウト思ハレマス。(渡辺, 1971: 86)

また、「嘉納は就任以来、体育がほとんど体操一科を中心とするものであり、武道もスポーツも教育に採用されず、遊戯と見なされていたことに疑問を感じていた」(長谷川, 1981: 32)のであった。

そのような彼の体育観は次の言説からわかるだろう。嘉納が東京高等師範学校附属小学校の校長をしていたときの体育の実践について、以下のように述べられている。

可児徳先生が帰朝ほやほやの頃クァドリールやコチロンなどを習って、運動会で男生女生混合でダンスをやったこともあります。運動会の朝早く、登校して、黒板塀添いの並木の下でたくさん椎の実を拾ったことも覚えています。

講堂といったか体育館といったかは忘れましたが、屋内体操場で、アレー体操だとか棍棒体操、肋木、跳箱など、当時としては、まだ珍しい体操を習いました。

それが近年サッカーの歴史を勉強してみて判ったことですが、この場所は、明治十一年に文部省が創設した体操伝習所の跡で、それを後に高等師範が引き継いだのだそうですからいろいろな設備があったことは当然であったのでしょう。こうした設備のせいか、寒い冬の間一ツ橋の校庭で、どんな遊びをしたかは覚えておらず、逆に学校帰えりの誰彼が私の家の池へ来て、氷滑りしたのを忘れません。(明治四十二年卒)(新田, 1973:28)

さらに、以下のように記されている。

遊び時間にはテニスボール(おもに軟球)を使い、バットの代りに掌を使う野球とか、当時流行した大型ゴムまりでの蹴球のまねごと、占春園や下の運動場にまでにも及ぶ広い構内に亘っての鬼ごっこ、先生の眼を盗んでの、占春園の池での蝦すくい、そしてクローバーの花をたがいに引っかけ合ってもぎ取る遊びなどが行なわれました。(大正八年卒)(筧, 同上書: 59)

嘉納治五郎が校長の際、附属小学校は坪井玄道以来の普通体操に加え、スポーツを行い、さらに占春園という自然環境の中で存分に遊んでいたことがここからも理解できる。それはまた永井の持つハビトゥスと嘉納に蓄積された資本とそのハビトゥスといった身体に刻み込まれているものの相違からくる格闘と言えよう。

6.排斥された三橋喜久雄とラジオ体操/デンマーク体操対文部省

1909(明治42)年3月に鳥取師範学校を卒業後、山東高等小学校教諭を経て、文部省中等教員体操科検定試験甲種(師範学校、中学校、高等女学校の教員免許)に合格の後、1911(明治44)年から師範学校教師と附属小学校の訓導をしていた三橋喜久雄は、文部省主催全国師範学校体操教師講習会(東京高師にて5週間行われた。「講師の陣容は、嘉納治五郎、永井道明、可児徳、津崎亥久夫、波多野敬之助、村地長孝氏等であった。この講習会の主なるねらいは全国師範学校教師自体の実力を向上させ、体育教育への理解と態度とを刷新振興し、やがては全国教育界への体育的興隆を図ろうとすることにあったようである」(三橋喜久雄先生の喜寿を祝う会, 1966: 7-8)と述べているように講習会に参加して、熱心に体操科について研究し、体操の実践を行っていた。(同上書: 4-8)

そして、1913(大正2)年1月8、9日に永井道明が鳥取師範学校の体育を視察した際に注目され、2月10日東京高等師範学校体育科主任教授永井道明から高等師範学校教授として勤務する意志があるなら永井から嘉納治五郎校長に推薦するから、その後に校長に論文を提出せよとの書簡が送られてきた(同上書: 9)。

1914(大正3)年12月26日に東京高等師範学校助教授、附属小学校訓導の辞令を受け、翌年1月より授業を開始している。体操専修科で体操、剣道、柔道を教え、その中に野口源三郎森秀弟の三橋義雄らその後体育界の中で活躍する者たちがいた。

しかしながら、東京高等師範学校出身ではない三橋喜久雄に対して、それを引っ張った永井道明に対抗する嘉納治五郎や可児徳の一派は、可児を先頭にして猛烈に反発し、ひいては三橋を排斥した。

後に三橋は、アメリカ、イギリス、ドイツ、さらにスウェーデンに留学し、特にスウェーデンでは中央体育研究所に在学して1924(大正13)年4月には1年間の養成部を卒業している。彼はスウェーデン体操を深く学んでからさらにデンマークのニルス・ブックに傾倒してデンマーク体操を実践するに及び、1927(昭和2)年6月に三橋体育研究所(世田谷区祖師ヶ谷)を設立した。彼は、以下のように述べている。

十年たった昭和十二年には、体育研究所の輪郭格好が少しは現われたようであった。しかし、この間にも決して道は平坦なものではなかった。私が全国的に講習や著書でもって活動し、小中学校の体育が私による影響が次第に大きくなるに従って所謂文部省的官僚絶対主義的な一つの弾圧のようなものが現われることが頻々たるものであった。例えば、大正十三年秋から十四年の終り頃までには全国中三十府県以上の小・中学校が私の主張する体育の行き方、その実際に殆んど赴くようになると、それへの抵抗として、文部省、それに連がる官僚的体育指導者が、文部省学校体操教授要目の改正と称して、小・中学校の体操は、この要目に絶対拠るべきものとして、要は私の指導影響を排除する挙に出た。…この要目に反する教師は、在(原文のママ、おそらく左)遷転任等を受けた者が少くなかった。(同上書: 15)

文部省が学校においてスウェーデン体操を制度的に押し進めるのに対してデンマーク体操を各地の学校などで講習し、その有効性に自信を持っていた三橋は、文部省と衝突していたのである。

要目の改正発布とか、準拠云々とか言って頑冥な官僚や盲従無力な教育者達によって時には後戻りしたり、一向に前進しなかつたりした事はあり、又、今後と雖も屹度斯様な残念な事は多少あらうと思ひますが、それでも私共が、こゝ十五年間に主張し、実践しているやうに日本の体操の大勢主体が向きつゝあることは何人にも争はれないことです。(三橋・三橋, 1935: 3)

さらに弟の義雄が「所謂丁抹体操が採り入れられたのはつい大正13年頃からである。而もその頃から最近迄はよいとか、悪いとか云って随分その実行も阻止されたが、善いものは誰が考へてもよい」(三橋, 1929: 18-19)と記しているように、三橋はデンマーク体操の実践に自信を持っていた。

そうした後、「(大正15年改正の教授要目の中で)倒立及転回運動が体操の一種類として挙げられた事は、当然とは云ひながら、確に一大進歩であり、茲に世界の大勢の一部分が押し寄せて来たのである。けれども其の他の材料に至っては、殆んど従来の瑞典主義のそれである。「事実は最大の雄弁である」茲一両年の体操の実際を見るに、御大典明治神宮祭体育大会に於ける体操に、又日本体操連盟の創案に成る各種の所謂連盟体操に、随分丁抹体操が加味されて来た。又女子体操音楽学校に於て、又東京基督教男子及女子青年会に於て、しきりに丁抹体操が行はれつゝある」(同上書: 19)とあるようにデンマーク体操が広く普及されてきたことを述べている。特に、学校現場では今日でもデンマーク体操が体操祭として続いている自由学園や玉川学園、さらに東海大学など私学に影響を与えた。

三橋喜久雄の地方を巡回して指導する実践的な運動によってデンマーク体操は広く普及し、それを基にしてラジオ体操が作られた。その制作には三橋喜久雄以下東京高等師範学校での教え子だった森秀、大谷武一、森悌次郎、三浦ヒロがいた。このように三橋喜久雄は、高師の派閥争いに巻き込まれ、はじき出されたが、人々の身体に見合った体操の研究に励み、実践し、今日続いているラジオ体操の原型を考案したのである。

7.どのようにしてこの「国」の身体技法は形成されたのか

ここまで見てきたように、この国における体操を中心とした身体技法にはいくつかの流れがある。

ひとつは軍事訓練であり、それは陸軍戸山学校を代表とする軍隊における教練や兵式体操である。これとは別に学校制度において、普通体操、遊戯(ゲーム、ダンス、スポーツ)系、すなわちシュピース(ミュンヘンを中心にして南ドイツ、欧州全土、イギリス、アメリカ、マサチューセッツ、アマースト・カレッヂ)→リーランド→坪井玄道→嘉納治五郎の系譜とスウェーデン体操系、すなわちリング→ベレンソン、ニールス・ポッセ→井口阿くり→永井道明の系譜がある。このふたつの流れの他に女性たちが確立したダンス派ともいうべき豊田芙雄→藤村トヨ→二階堂トクヨ→三浦ヒロの流れがあろう。また、学校制度からは排斥され、周縁化したが今日でもこの国の多くの人々の身体の中に刻み込まれているラジオ体操を創始した中心人物としての三橋喜久雄(デンマーク体操)の流れがある。

こうした様々な流れは、必ず以下のような対立を生み出し、またその対立からそれぞれの系譜を確固たるものにしていったと考えられる。すなわち、以下の通りである。

1)学校教員対軍人/普通体操対兵式体操/学校対軍部/文部省対陸軍省の格闘

2)坪井玄道、可児徳、嘉納治五郎対永井道明、井口阿くり/普通体操、遊戯(スポーツ)対スウェーデン体操/東京高等師範学校内の派閥争い

3)井口阿くり、永井道明対藤村トヨ、二階堂トクヨ、三浦ヒロ/形式重視の運動対自由でリズミカルなダンス/東京女子高等師範学校内外の争い

4)三橋喜久雄対文部省/デンマーク体操対スウェーデン体操の伝統/玉川学園、自由学園、東海大学など私学対文部省

こうした対立軸をもとに、どれを身体技法のモデルに決めるのかの対立が東京高等師範学校、東京女子高等師範学校における派閥あるいは権力争いを交えて歴史的になされてきた。それは、その当時の権力の中枢にいる個人の身体の経験(海外留学を含めて)を基にした個人(の身体)と個人(の身体)との格闘、すなわちハビトゥスとハビトゥスとの格闘の歴史といってよい。本稿では、特に永井道明と嘉納治五郎の生い立ちとそのネットワークから生まれるハビトゥスの相違からスウェーデン体操と普通体操、遊戯(スポーツ)との対立を述べた。

今なお学校などで残っているこの国の人々の身体の奥底にあるのは、名目として「自然科学的見地」、すなわち「生理・解剖学的見地」「国民の健康」「体力の向上」「衛生的側面の改良」「良好な発育・発達」といった自然科学的知識からみた健康・体力・衛生面の向上を目的としてはいるものの、その実は規律訓練、集団への従属、集団における美的価値の強調を促すものとして作用している規律訓練的身体である。排列、姿勢、号令、統一した動き…など、このことからすれば永井的なるものと嘉納的なるもののどちらがこの身体的格闘の末に残存しているかを改めて考える必要があろう。

嘉納治五郎の体育実践に対する見解は、非常に見出しにくいものであるが、西欧のスポーツを見てきた嘉納にとって、画一的、全体主義的な体操に抵抗する身体性を模索していたように思われる。体操の歴史における権力関係、及び多様なネットワークから紡ぎ出された嘉納治五郎の言説と実践を踏まえて、この国の体育実践と身体の構築のされ方を検討していく必要がある。

【註】

1.このような近代的軍隊の身体技法を習得する以前のこの国の人々の歩き方は、   いわゆるナンバとされている。このナンバという民衆の身体に深く刻み込まれてい   た身体技法の上に近代国家設立の重要な要素として近代兵を作るための身体技法が   練り込まれていった。ここでは、民衆の身体技法-ナンバ-と近代的軍隊設立のための規律・訓練による変化については深く触れずに課題として挙げておくにとどめる。

2.もともとは、ドイツのシュピースに端を発する体操であり、アメリカにおいて社会改良の上で一般国民の体育を奨励すべしと考えたクリスチャンのダイオ・クレシャ   ス・ルイスの発案による体操である。キリスト教の布教と体操、スポーツ、あるいは音楽との関わりについても別稿に譲るが、キリスト教青年会館の空間に占める体操場の割合からみても体操やスポーツがどの程度重要視されていたのかがわかるだろう。

ちなみに、歴史的にその流れを汲む筑波大学の体育センター前には坪井玄道の銅   像がある。

3.1892(明治25)年に東京女子高等師範学校を卒業後、附属小学校訓導を経て、翌年から附属高等女学校で国語と地理を担当していた井口阿くり(1870-1931)は、山口県私立毛利高等女学校教頭に勤務していた1899(明治32)年5月に教育学(体育)研究のための3年間の米国留学の命を文部大臣より受け取った。当時の女子高等師範学校長高嶺秀雄は、彼女の帰国を待って女子高等師範に国語体育専修科を新設するという構想だった。1899(明治32)年10月1日~1900(明治33)年6月30日まで井口はスミス・カレッジに在籍し、体操科(主に、スウェーデン体操)と生理学を学んだ。その後、1900年9月~1902(明治35)年5月31日までボストン体操師範学校で体操を中心に学んだ。この学校の最初の教師は、スウェーデンから来たスウェーデン体操専門家のバロン・ニールス・ポッセであり、スウェーデン王立中央体操学校がこのボストン体操師範学校のモデルだった。こうして、アメリカでスウェーデン体操を吸収した井口は、ハーバード大学などのサマーコースを受講し、東部各地域の師範学校、高等女学校の遊戯体操を視察、さらにヨーロッパを見学して1903(明治36)年2月に帰国した。そして、すぐに女子高等師範学校教授となり、新設された国語体操専修科主任に就任した。井口は、同附属高等女学校、日本体育会体操学校女子部、東京音楽学校、あるいは文部省講習会などで数ある体操の中でスウェーデン体操が最も身体に有効で優れているとして指導した(輿女, 1981: 104-116)。

彼女は、スウェーデン体操の特徴について以下のように述べている。

(スウェーデン式の特徴は、)科学的に組み立ててある体操と言うべきでしょう。即ち、心理学と生理学とに基づいて、最も教育的に組織されているのです。具体的に申しますれば、…如何なる短時間にも首も手も腹も背も足も要するに、身体に全部に行き渡って運動するのであります。(中略)正しく年齢と健康の差異に適応して、単純より複雑、簡易より困難になるのでありますから最も教育の目的に適う。…(井口, 1986: 259)

しかしながら、このスウェーデン体操に対して1908(明治41)年に32歳で東京女子体操音楽学校の校長に就任した藤村トヨは、以下のように批判した。

当時の日本人の体格姿勢についていえば、いくらか脊柱上部はゆるんだ状態で、やや猫背の傾向を持っていたが、比較的腹の力は、衣服帯紐で胸腹部を圧迫した婦女子を除いたほかは弱い方ではなかった。しかるに総べての日本人を円背・猫背と見なして、その円背のよってきたるところの原因も考えず、ひたすら体操の形式のみで日本人の体格姿勢を矯正せんとしたことは誤りであった。

すなわち、スウェーデン体操の普及のはじめは主として背を伸せ、胸を張れ、肩を引け、尻引け、膝伸せという、実に堅張った動きのとれない姿勢を始めとして、その姿勢より種々なる堅張った運動形式をとった。

その結果は、運動としては多く努責作用に陥り、姿勢体格としては、胸にのみ要点をとったために、背骨が伸び過ぎ平背となり腰が折れて腹の力が抜け、かえって青少年、壮年に肋膜炎を始めとして肺病患者の激増を見るに至った。

これは九州大学教授医学博士故桜井恒次郎氏の認むるところとなり、ややその形式に矯正を加えられた点もあったが、すでに全国に普及した堅張りの弊は今なお一般に痛く認められる。

要するに、スウェーデン式万能体操に統一されて以来25年間中、前半は実に日本の児童のからだに急激な圧迫を受けた。後半は桜井博士によって、その形式は改められたが、しかし全体において姿勢矯正的体操を鍛錬的に使ったことは誤りであった。(藤村, 1981: 139)

そして、1928(昭和3)5月~1929(昭和4)3月に英、仏、スウェーデン、デンマーク、オランダなどを視察し、スウェーデン体操を万能視することに疑問を抱き、さらに1930(昭和5)9月からのドイツでの視察以来、律動体操に影響され学校教育におけるダンスに大きな影響を及ぼしている。

また、井口阿くりの後継として1911(明治44)年から東京女子高等師範学校助教授をしていた二階堂トクヨ(1880-1941)は、当時東京高等師範学校、兼東京女子高等師範学校教授永井道明の推薦で翌年11月から永井が以前留学していた英国キングスフィールド体操専門学校(Kingsfield Physical Training College;女子校)にスウェーデン体操(教育、軍事、医学、美容の4種)、生理学、解剖学、運動理論を学んだ。しかしながら、彼女は永井の期待があったにも関わらず、永井の作った「体操教授要目」に対してあまりにも形式的、ドリル的で、変化の乏しいものだとして対立した。特に、永井がダンスを軽視し、価値を認めなかったことに対し、二階堂は英国からメイポール、三人遊び、ブラックナッグ、ギャザリングピースカッツなどイギリスのフォークダンスやアイルランドのロブスタージックといったフォークダンスを行っている。後に、彼女は1922(大正11)年4月に二階堂体操塾(代々木山谷)を開設し、体育婦人同志会会長、女子体育普及のための体育研究所設立を目指すなど活躍した(西村, 1981: 160-174)。 この他に三浦ヒロなどがいるが、こうした人々は東京女子高等師範学校の卒業生や教員として井口阿くりや永井道明と何らかの関わ   りを持ちながらもその規律訓練的なスウェーデン体操を批判し、ダンスや創作活動に力を注いだ。これらは、女性として体育の中でダンスを位置づけたネットワークであり、ジェンダー論と体操あるいは体育を論じる際に重要な視点である。これもここでは指摘するにとどめておく。

4.曾祖母に藤田東湖の父幽谷の妹がおり、東京女子師範学校附属幼稚園で幼児教育に従事した豊田芙雄とも遠縁になる。

5.小学校卒業後、広島県沼隈郡の各小学校教諭、校長を歴任の後、広島県師範学校、   同附属小学校訓導兼助教諭司補、東京高等師範学校教授掛補助、さらに学習院助教   授、長野県師範学校傭教師、日本体操学校長、弘文学院教授、哲学館大学(後の東洋大学)心理学教授、日蓮宗大学教授、独逸協会教授、児童教養研究所顧問といった学校や大学で教鞭をとった。「児童学」確立の中心的人物として知られ、『教育に応用したる児童研究』(洛陽堂、1911年)では、幼児教育における遊びの重要性について様々な角度から論じている。

彼は、嘉納治五郎の嘉納塾(九段坂上、吉田松陰の弟子 品川彌次郎子爵がドイツ公使としてドイツに駐在中嘉納治五郎に家塾として提供していた。塾生約20名。朝は嘉納治五郎の精神訓話、夕方は講堂館で柔道の修業鍛錬。)の塾生だったことから嘉納治五郎と懇意にしており、この体操遊戯取調委員会でも嘉納の意向を聞いていたと考えられる。広島県沼隈郡神村小学校須江分校の教え子が「青年共進社」を発足、青年団の発祥となり、自らも明治時代警視総監三島通庸の三男で日本初のオリンピック選手だった三島彌彦の甥、三島通陽(みちはる)と共にボーイスカウト日本連盟を創始している。また、高島の長男、文雄は徳富蘇峰の媒酌で結婚している。文雄は、岸清一法律事務所に勤務し、大日本体育協会秘書、大日本体育協会主事、オリンピック大会主事を歴任、「Athletics」の編集責任者もしていた。このあたりは、嘉納治五郎を囲む日本のオリンピック運動のネットワークとして分析できる(清水, 1994)。

6.1874年(明治7)年岐阜生まれ。日本体育会体操練習所を経て、1911(明治44)年東京高等師範学校教員、1915(大正4)年から1917(大正6)年までアメリカ留学、1918(大正7)年に東京高等師範学校助教授。永井道明が推薦して高師の教員となった三橋喜久雄の排斥、反永井道明の立場を明確にして運動した。1921(大正10)年東京高等師範学校を依願退職している。

7.医学博士、スウェーデン体操の生理学的、解剖学的な有効性を述べた。

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(日本体育協会スポーツ医・科学専門委員会, 日本体育協会創成期における体育・スポーツと今日的課題:嘉納治五郎の成果と今日的課題, 37-54, 2011)

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